東日本大震災で亡くなった人は、地震や津波が原因の人が殆どだけれど、実はそれだけじゃない。
先日、うちの寺に法事のために久しぶりに来た御婦人の話だ。
この人は都内に住んでいるのだけれど、奥さんの両親のお墓がうちにあるから、夫婦でよくお参りに来る。それでよく知っているのだ。でも、そういえば最近御無沙汰だった。
「うちのお父さん、亡くなったの。去年の3月11日に」
「え?震災の日ですか」
「あの地震のすぐあとに、心筋梗塞で倒れてしまって。
すぐ救急車を呼んだんですが、いつまでたっても到着しないで…心臓マッサージもAEDもやれる事はやったんですが、結局病院に入ったのは3時間後だったので、手遅れになってしまい、私はもう悔しくて悔しくて…もしもちゃんと救急車が来ていれば助けられただろう。と、お医者さんもいってました」
思えばあの日、都内の道路は渋滞で完全に麻痺していた。
こんな死に方ってあるのか。
亡くなった方は、東京の豊山派のお寺の総代をしていて、よくお寺でのお参りの仕方を知っている方だった。だから、いつも率先して金剛合掌をして大師宝号を唱えていたのに。と思うと、思わず涙があふれた。
震災の被災者っていうと、どうしても東北の方に思いを寄せてしまうけど、それだけじゃ足りないのだ。
この方のように二次的な被害によって亡くなった人は、東京にも茨城にも千葉にも埼玉にも、他にももっと沢山いるにちがいない。
だから祈りの空間をもっと大きく広げなきゃならない。祈りの広さは、限りなく広いのだ。
本堂に安置してある「東日本大震災物故者霊位」の位牌をみながら、そんな事を考えた。
2012年09月17日
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